トロフィー

彼はまずはじめにハンバーグを口に入れた。


ゆっくりと肉を噛み締めて飲み込んだあと、サラダが盛られた皿を指差して「もうこいつから先に食う必要がないからな」と笑った。先月の終わりに彼はプロボクサーを引退した。8年間に及ぶプロ生活の最後の試合は、判定負けだった。


わたしは彼が現役だった頃と同じように、まずサラダから取りかかった。「こうすることで胃の中にサラダの絨毯ができる。減量を終えて弱ったボクサーの胃には、この食べ方が一番優しいんだ」……彼のトレーナーだった佐伯さんがよくそう言っていた。

彼が計量をパスしたら佐伯さんと彼にくっついて、こうしてファミレスでサラダとハンバーグを食べていたのを思い出す。彼と過ごしてきた8年間、ずっとそうしてきたのだ。もう佐伯さんに会うこともないのかな。そんなことをぼんやり考えていたわたしの耳に、彼の声が遠くから響いてきた。


「え? なぁに?」と、わたしは聞き直す。
「だから、例の杉並の2DKでいいかなと思うんだ」


わたしたちは同棲に向けて、家探しをしていた。杉並区の物件は最終候補のうちのひとつだった。「うん。わたしもあそこがいいかなと思ってた」サラダを食べ終えて、わたしはハンバーグにナイフを通す。彼はコーヒーに砂糖とミルクを落としながら、「トロフィーさ、処分しようと思うんだ」と言った。何気ない口調を装ったつもりなのだろうけれど、まるで砂でも頬張っているような不自然な響きが混ざっていた。


彼の言葉はわたしの中でうまく処理されず、しばらくの間、わたしの耳の周りをふわふわと漂っていた。トロフィー。ようやく言葉の意味を理解すると、体の芯がじんと熱くなった気がした。


「それって勝利者トロフィーのこと?」
彼は当たり前だと言うように頷く。


「あれを見てるとどうしても現役時代を思い出しちゃってさ。次の人生では考えたくないんだ、ボクシングのこと」
わたしは判定負けに終わった彼の最後の試合を思い返す。わたしに顔を近づけて、ただ一言「ごめん」とつぶやいて花道を戻っていった彼。引退までの数試合、彼は膝の故障から満足のいく試合ができなかった。


彼は自嘲の笑みを浮かべ、足下のマンホールでも眺めるような調子でおもいきり甘くしたコーヒーに目を落とす。わたしの視線を避けているんだ。まあ、そうしていればいいじゃない。


わたしは勝利者トロフィーが彼のアパートのゴミ置き場に並べられている様子を想像してみた。


指定された曜日、時間に路上へぽつんと置かれたトロフィー。たしか収集シールが必要だったはず。「粗大ゴミ」と書かれたシールが貼られたトロフィーを見て、回収に来た業者の人が首をひねるかもしれない。それともトロフィーなんてよく出されるゴミのひとつで、何とも思われないかもしれない。いずれにせよ数本のトロフィーはあっという間に回収され、どこか遠いところへ運ばれていく。あまりにも遠くて、どんなに目を凝らしても見えない場所まで。ちゃんちゃん。それでトロフィー君の物語はおしまい。それね、かつてボクシングにすべてを捧げていた男の宝物だったんです。きっと、回収車が去っていくバックにはもの悲しい音楽が流れてる。


「わたしは」と、わたしは口を開いた。

「わたしは、中学生の頃にもらった市の芸術コンクールの賞状を今でも大事にとってるよ」
口にしてからすごく馬鹿げたことを言ったものだとあきれてしまったけれど、わたしは目にぐっと力を込めて彼を見つめた。間抜けな発言だけれど、冗談だとは受け取って欲しくない。

一瞬、彼の顔に笑みが広がったように見えた。

それは瞬間的に起きた波のようなものであっという間に引き、後にはしかめっ面が残った。


「言いたいことはわかるけど、トロフィーなんてテレビ局が用意したカッコつけの為のものだぜ? それに……発注すれば、誰だって手に入れることができるんだし」

冗談を言ったつもりなのだろうけれど、彼のその言葉はわたしの身体からいくらか体温を奪っていった。

どうして?

どうしてこの人はこんな言い方しかできないのだろう。

……ばか。


「全然わかってない……。全然わかってないよっ…!」

なんだか、力が抜けてしまった。


自分の一部が欠けてしまったような、途方に暮れた気持ちで窓の外へ目を向けた瞬間、わたしは凍りついた。



始め、わたしはそれを大樹だと思った。
黒ずんだそれは太い、果てしなく太い幹だと思った。


しかし、違った。


窓の向こうに隆々とそそり立つそれは、空へ目がけて怒張した、巨大な男性器だった。


「嘘……」それっきり言葉を失ってしまったわたしにつられ、彼も窓の外へ目をやり「えびゃッ!!?」と言葉にならない声を上げておののく。


隆起した陰茎はドクン、ドクンと脈打ちながら肥大し、やがて空を突き破り、地鳴りを響かせながらなおも膨れ上がっていった。ミシミシと悲鳴を上げた窓にヒビが入り始め、わたしたちは慌ててファミレスの外へ飛び出した。


みな、一様に空を、いや……天と地を繋ぐ巨大な壁を見上げていた。


同時に、人類の想像を超えたスケールの肉棒も地上にひしめく愚かな人間たち、そのゴミ粒のような姿を眺めていた。


空を舞う鳥たちが肉の壁に激突し、死骸となって振ってきた。


進路を遮られた飛行機がなすすべもなく突っ込み、上空で爆煙を上げた。


人々はただただ絶望した。


天と地を制した肉塊は沈黙の中で鋼鉄よりも硬い勃起を守り続けた。




それから、2000年余りの時が経った……




時の流れはすべての物事を遠い遠い場所へ運んでいった。


肉棒が地上に姿を現した「運命の日」を知る者も、それを伝承する者も、もはやいない。


あまりにも多くの物事が、変わってしまったのだ。


今や肉棒は風化し、あの日の恐怖を忘れた人類のデートスポットに成り下がっていた。




それが、



現在の東京スカイツリーである。



〜 完 〜