" 糸を切らすな "
ただそれだけを考えてきた。
デビューのときからずっと、ただそれだけを。
糸さえ切らさなければ、俺は誰にも負けない。
そう信じてきたし、実際に俺はこれまで、ただの一度も負けたことがなかった。
満員の後楽園ホール。8度目の日本王座防衛戦。
この糸の先には世界のリングが待っている。
そのハズだった。
四角いリングが歪んで視える……
「糸を切らすなッ!!集中しろッ!」
インターバル中、クソじじいが耳のそばでわめき散らすが、その声は微かにしか聴こえない。
おそらくさきほどのフックで鼓膜をやられたのだろう。
くそったれ。どうしてあんなチャチなカウンターをもらった? 何がいつもと違う?!
「糸を切らすなッ!!」なおもじじいが叫ぶ。
くそったれだ。このじいさんは俺のデビュー戦からずっとこうだ。
" 糸を切らすな "
俺は一体何度、この言葉を耳にしただろう?
相手コーナーを見つめる。
くそったれ。綺麗な顔してやがる。22歳のクソガキ。日本を背負うホープ。
「さっさと腫れ止め金具を当てろッ!!」
俺は怒鳴る。じじいがわめく。セコンドがすぐさま俺の右目に腫れ止め金具を当てる。
下手クソが。どうしてもっとうまくやれない?
「とにかく右目を使えるようにしてくれッ!!」
声を張り上げる。懇願する。目を。目を。目を。
右目さえ見えれば……
次のラウンドも酷いものだった。俺は終始打たれ続け、とうとうダウンを喫した。
ダウンは実に18試合ぶりだった。くそったれ。
天井の照明の眩しさを久しぶりに感じた。
ゆっくりと、膝を曲げる。オーケイ。脳には" きてない "。
カウント8まで時間をかけ、ゆっくり身を起こす。
じじいがアホみたいに口を広げている。
俺は片耳が完全に聴こえなくなっていることに気づく。
俺は、負ける。
俺にはそれが分かる。
俺は日本王座を失う。
明日から何をして暮らそうか?
ボクシング以外に俺に何があるだろう?
信じられないことに、俺の膝は恐怖で震えていた。
目の前のクソガキに負けることに対する恐怖ではない。
自分が何も持ち合わせてはいないことに対する恐怖だ。
試合が再開される。
『糸を切らすなッ!!!!!』
じじいの声が頭の中で爆発する。
何百、何千と耳にしたあの声が。
クソガキのジャブが頭をかすめる。
" 頭をかすめる? "
くそったれ。なんてことだ。
体は自然に反応していた。
何千、何万と繰り返してきたこの基本動作が、俺を助ける。
それでいいんだ。
意識の切れる、最後の一瞬まで。
ボクサーであり続けることができれば。
クソガキのがら空きのボディに、
俺は自分の人生を、叩き込んだ。
〜Fin〜