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名探偵ポームズ 事件編

「わたしたちの前に残されたのは、単純明快な殺人事件だけですよ」
「皿の上でからまりあってるスパゲティ並みの単純明快さだろ」
  ーーー『猟犬クラブ』 ピーター・ラヴゼイ



* * * * * * * * * *



私たちが「ポームズ探偵事務所」で暇を持て余し、鳴りもしない電話をぼんやりと眺めていた頃、その不可思議な事件は幕を開けた。


警視庁刑事部捜査第一課の目々暮(めめぐれ)警部が「男が刺された」との匿名の通報を受け現場に到着したとき、被害者宅は中から施錠された状態であった。目々暮警部はチャイムを鳴らし、「警察です! 細木さん、いらっしゃいますか!?」と叫びながらドアを二度、三度と叩いてみたが何の反応も返ってはこなかった。


しばらく待って管理人から鍵を受け取り、閉ざされた扉が開けられたとき、警部の目に最初に飛び込んできたのは部屋の中央で倒れている男の姿だった。


そして、血。


玄関から点々と続く血の痕がキッチンを越えて男が倒れているリビングの中まで続いており、つけっぱなしになっている部屋の照明に反射して、男の背中に突き立てられた包丁が冷たい月のような光を放っていた。


警部は部下に救急車の手配を指示し、血の痕を踏まないよう注意して被害者のそばへ駆け寄った。

奇妙なことに被害者の体のそばには4枚のビート板が転がっていた。


ビート板を調べようと身を屈めたそのとき、警部の耳にかすかな物音が聴こえた。

窓の外……?

警部が反射的にカーテンを開くと、何とバルコニーに若い男が立っていたのである。
あご髭、帽子、グレーのパーカー、紺のスニーカー、身長は175cm前後と警部は判断した。


男は警部と目が合うと、すぐさま背を向けて手すりに足をかけた。
「危ない、やめろッ! ここは11階だぞ!?」
叫びながら窓を開けようと手をかけると、警部は驚いて「あぇっ?!」と思わず声を上げてしまった。窓がロックされていて、開かなかったからだ。余談だが、それは警部が射精するときによく出してしまう声でもあった。


警部がもたついている間に、男はバルコニーの手すりを越えて飛び降りた。

馬鹿な!? 11階から飛び降りるだなんて!

警部は混乱しながらも窓のロックを解除し、バルコニーへ飛び出した。

すぐさま下へ目を向ける。


ダンプカーに轢かれたカエルのような様子で、男が潰れているのがわかった。


「マンションの外で潰れているグレーのパーカーの男を捕まえろ!」
目々暮警部はすぐさまパトカーで待機している連中に無線を入れて部屋へ戻り、じきに鑑識が到着することを報せる部下に頷きながらも、頭の中では他のことを考えていた。


「窓に……ロック……?」





被害者が死亡したのはついさきほど、おそらく15分以内のことだろう、と鑑識官は説明した。

「肺をグサリ。この死に方はキツいんだ。ガイシャは相当苦しんだだろうねぃ」
そう言って鑑識の男は勢いよく煙草の煙を吐き出した。恰幅のよい目々暮警部と違い、枯れ枝のような細い身体、こけた頬、しかし眼鏡の奥で光る眼は精気に満ちており、ソファに深く腰かけて部屋を仔細に眺めるその姿は威圧感を感じさせもする。男の名は孫 大工(そん だいく)、警視庁の現場鑑識第3課に所属する鑑識官である。


「休んどらんで、仕事をしろ」目々暮警部はソファに座る孫の腕を掴んで無理やり立たせ、背中をドンと押す。
「ふん、頭の固い老いぼれめ」と言って孫は目々暮警部に煙草の煙を吹きかけるが、実際には二人は三つしか歳が離れていない。孫は煙草を深々と吸い込みながら、空いた手で玄関を指差した。しかし視線は警部の顔に注いだままだ。


警部はしばし孫の顔をいぶかるように見ていたが、やがて嫌々ながら玄関へ目を向けた。

玄関から部屋の中央、被害者の元へ向かって続いている血の痕。

「間違いなく、被害者のもんだぜぃ?」表情を変えずに言う孫の言葉を、警部は黙って聞いていた。


孫は続けて部屋の隅を指差す。
警部は体の向きを変えてその方向を見た。
どうやら隅に置かれたローチェストを指しているらしい。


「あれがどうかしたか?」と警部が聞く。
「さきほど、ちょいとあれの上を見た」孫はニヤリと笑い、煙を細く吐き出した。
「で?」警部はイライラしながら先をうながす。
「何かが載っていたらしいな……それなりに大きさのあるものだ」


警部がローチェストの上面を調べると、たしかに右半分の一角に埃が積もっていないスペースが出来ていた。





それからしばらくして、さきほどベランダから飛び降りた男が全身を包帯で巻き、ミイラ男のような姿になって松葉杖をつきながら目々暮警部の前に連れてこられた。当然のことだが、かなりの重症を負ったようだ。

「貴様は被害者を刺殺して逃げようとしたものの、ワシら警察がドアを開けようとする音がしたため玄関からではなく、愚かにも11階のバルコニーから脱走することを企んだ……そうだなッ!?」
警部が凄むと、ミイラは松葉杖を振りながら、
「ちちち、違う! お、俺は、殺してなんかいない!」と慌てふためいて答えた。


「なら、おたくは何故ベランダになんかいたってんだぃ?」
口の端に煙草をくわえ、指紋の採取作業を続けながら孫は容疑者のミイラ男に尋ねる。

「そ、それは……部屋に入ったらカズが倒れてて、その……背中に包丁が突き刺さってるのを見て……も、もちろん、救急車を呼ぼうとは思ったんだ! でも玄関の外で人の声がして、しかも警察だって言うじゃないか! それで俺は怖くなって……だってそうだろう!? そんなところを見られれば、どう考えたって怪しまれるのは俺だ! だ、だから俺はパニックになってベランダへ出たんだ! 11階……もちろん飛び降りる以外に逃げ道なんてなかったけど……」


ミイラ男はそこまで言うと包帯で巻かれた自分の体を見て、肩を落とした。


「さっきカズと言ったな? お前はこの部屋の住人、細木 数夫と知り合いなのか?」と警部。
「あ、ああ、職場の同僚だよ。本当だ、調べりゃわかるさ!」

「どうやって窓にロックをかけたんだね?」警部がいくぶん柔らかな声音で尋ねた。

「ロック……? な、何言ってるんだ、俺がベランダに出ていたのを見たろ? ロックなんてかけられっこない」とミイラ男は答えた。


たしかにミイラ男の言うとおりだった。

窓のロックはレバーを上げ下げするだけの単純なものだが、当然部屋の外からロックをかけることは出来ない。
仮にミイラ男が何らかの方法で外からロックをかけられたとしても、警察が部屋の外に集まっている状況でわざわざ窓にロックをかける意味など無いに等しい。とはいえ、それを言えばバルコニーに隠れようとする事自体が無意味極まりない行為なのだが……。そもそもバルコニーには身を隠す場所などないのだ。現に警部がカーテンを開けただけで男は見つかってしまったではないか。


誰が、何のために窓をロックしたのか……。それが警部には引っかかっていた。


「この部屋へはどうやって入ったんだぃ?」
短くなった煙草を人差し指と親指でつまむようにして持ち、孫がミイラ男に尋ねた。

「どうやって……? ああ、鍵は開いてたんだよ。カズはいつもそうしてたんだ、俺が遊びに行くって分かってるときはな」

その答えに警部はいくらか落胆した。
ミイラ男の証言が本当なら、誰でも被害者の部屋へ入ることができたわけだ。


「部屋に入った後、鍵はかけたのかぃ?」孫が続けて聞く。
「ああ、いつも通り、部屋に入った時に俺が鍵をかけたよ……」

「部屋に入った瞬間に友人が倒れているのが見えたんじゃないかね? それでもドアの鍵をかけることを第一にしたのかな?」
警部が自分が部屋に踏み込んだときのことを思い出しながら言うと、ミイラ男は疑うなら疑えといった投げやりな様子で首を振った。
「いや、俺が入ったとき、キッチンとリビングを仕切る引き戸は閉まってたんだ。引き戸を開けたらカズが倒れていて……その後で、あんたら警察が……」


ミイラ男はそこで何かを思い出したように包帯の間から見える目を見開いた。

続いてミイラ男の発した言葉が、警部と孫をますます混乱に陥れることになった。


「玄関から続いている血……あれもカズの血なのか……? お、俺が部屋に来たときにはなかったけど……」





もう永遠に鳴らないのではないかとすら思っていた事務所の電話が鳴り出したのは、それから20分ほど後のことだった。目々暮警部から事件の概略を聞き、私は電話を切った。


警部からの要請を手短に伝えると、ポームズは満面の笑みを浮かべて両の手のひらを激しくこすり合わせ、可笑しくてたまらないといった様子でドナドナを歌い上げた。

「素晴らしい! 実に素晴らしい事件だ!」とポームズは叫んで弾かれるようにデスクから立ち上がり、壁に向かって全力でタックルを決めた。壁にかけられていた額が衝撃で次々に落ちた。


「ドアは施錠、窓はロック、玄関から続く血痕、バルコニーの不審者、4枚のビート板……」

ぶつぶつと呟きながらポームズは浴室へ消えた。


シャワーの激しい音に混じって、ポームズの高笑いが聴こえてくる。
「キミも準備したまえワトソソン君! 事件が僕らを待っている! しかも! しかもだ! しーかーもーだぁーーっ! アハハハハハハハハ!! 久しぶりの殺人事件だぞ! 浮気調査じゃないんだ!!」


ポームズは全身びしょ濡れになり衣類から水滴を落としながら浴室から出てくると、飼育用のプラスチックケースからヤモリを一匹つまみ出し、口の中に放ってもぐもぐと口を動かし始めた。

「ンまいッ! ではワトソソン君! 僕は先に駐車場に行って待っているぞ! あ……! いや、こうしよう! 駐車場まで競争だ! ハハハハハハ! 先に着いたほうが人生の勝ち組だぁーーーーッ!!」

歯を剥き出しにして笑い、ポームズは事務所の玄関扉を力任せに外して廊下に叩き付け、そのまま階段を駆け下りて行った。


「やれやれ……」
私は四苦八苦してなんとか玄関扉を取り付け、地下の駐車場へ向かった。



ー 名探偵ポームズ 推理編に続く ー