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職場のボーイズライフ 前編

ノスタルジー

徹夜明けのコーヒーはほんの気休めにしかならなかった。

時刻は午前9時半。


ぽつぽつとあらわれはじめる新人の「おはようございます」にはどことなくぎこちなさがまとわりついていて、重い。新人たちは誰ひとり「徹夜だったんですか」なんて声はかけてこない。そうした会話のやり取りを拒否すべく私は目を瞑り、背中を丸め、こめかみを強く、弱くと交互に揉んでいた。


「なになに、米田(べいだ)君、ひょとして徹夜ぁ〜?」

しばらく意識が飛んでいたらしい。
見上げると、出来たてのトーストみたいな洋子の顔があった。

「そ、徹夜」私はぬるくなった残りのコーヒーを胃に流し込んだ。
視界が妙に白み、滲んでいる気がした。意識はまとまりのない綿あめのように四方へ分散していく。

「ひどい顔〜。ま、それはいつものことか」くすくすと笑いながら洋子は言った。
私は洋子のひやかしを受け流して、「例の新しい雑誌はどうなったわけ?」と聞いた。
「うん、それなんだけどね……」
洋子は眉根を寄せると、声をひそめて続けた。
「なんか、外部のライター……を、呼ぶみたいなの」と洋子は妙な間を置きながら言った。
「外部の? そんなに難航してるわけ?」私は少し驚いた。
「ううん。まだテーマも決まってない、白紙の状態よ。
 なんかそのライターってのが編集長の昔馴染みのひとらしいのよね」
それで私はなんとなく合点がいった。
「なるほどねぇ。このご時世だし、フリーの連中も食いぶち稼ぐのに必死ってわけだ。で、主にどんな仕事やってきたひとなの、そのライター?」
すると洋子はいっそう眉根を寄せ、険しい顔をつくってみせた。
「それがね……正確には……そう、肩書き的には、ライターとはどうも違うらしいのよね」
「ライターじゃない?」
「ええ……」

洋子はいったん言葉を切り、ため息とともにこう呟いた。

「自称ハイパーメディア・クリエイターだって言うのよ」



午後のミーティングに現れた自称ハイパーメディア・クリエイターという男の異様な姿に、私は度肝を抜かれた。

男は顔の半分をガスマスクで覆っており、白装束に身を包んでいた。頭にはベタな幽霊がするような白い三角の布をつけ、側頭部から伸びる半透明の太い管が首に直結し、ポンプのようにドクンドクンと波打ちながら首から頭部へと何かを送りこんでいるらしかった。
「な、なんだこいつぁ……」私は世界の終末を目にしたような気分で呟いた。

「小生、アメリカ・アマゾンと申します」
シュコー、シュコーとガスマスクを低く唸らせながら白装束の男は言った。男は目の焦点が明らかに定まっておらず、ときおり完全に白目を剥くのが気になった。
編集長が「彼がハイパーメディア・クリエイターのアメリカ君だ」と言って、男の経歴と合わせて改めて紹介した。


このアメリカという男はかつて「ロシア連邦軍参謀本部情報総局」に所属していたスパイで、ソ連崩壊後はKGBに籍を置いていたらしい。後にスカウトにより「CanCam」で専属モデルを始めるも、ホットパンツの横から男性自身をうっかりさらけ出した写真をネット上に自ら流出、責任を取りモデルを引退。以後はキャンドル・ジュンを己の師と仰ぎ、ロウでこしらえたよくわからんモノをゲージュツと呼んで人生の意味を見いだす。2009年末からは「ツイッター」という特殊軍事端末を用い、ブラックマーケットにあることないこといかんともしがたいことをのっぴきならない文体で書き綴る、空想型モラリストである。


「あの……編集長」洋子が手を挙げた。

「彼の経歴と我が社のコンテンツには、かなり距離を感じるのですが……
 オカルト雑誌でもつくる気なんですか?」
洋子の強気な発言にあちらこちらで笑いが起きた。
これは見ものだな、そう思って私は眠い目をこすりつつ編集長の出方をうかがった。

編集長はひとつ咳払いをして口を開いた。
「市原君、キミの言いたいことはよくわかるよ。たしかに彼は非常に胡散臭い。
 だがね、彼はあのあしたまにあ〜なをつくった男なんだよ」

「あ……あしたまにあ〜なを?!」今までに聞いたことのない声を上げ、洋子が反応した。


あしたまにあ〜なというのは90年代後半から2000年代半ばまでテレビ朝日系列で放送されていた、日本を代表する情報バラエティ番組である。当時の日本のプレジデント小泉 純一郎に「日本の歴史はあしたまにあ〜ながつくる」と言わしめたことでも有名であり、あしたまにあ〜なゼロ年代のイコンであるとの見解を示す社会学者も少なくないとかそうでもないとか。


濱田マリは、小生が育てました」
アメリカはそう言って親指をおっ立てて見せた。

あしたまにあ〜なを手がけた方と仕事ができるなんて、光栄です」洋子はうっとりとした表情でそう言った。「シュポッ」という音とともにアメリカは耳の穴からピンク色の蒸気のようなものを出して、舐めるような視線を洋子に注いでいた。
「とんでもない野郎だ……」私は思わず呟いた。

しかし洋子にもまだ理性は残っていたらしい。すぐにこう切り出した。
「でもここは出版社です。雑誌をつくるのが私たち編集者の仕事……テレビの仕事とは勝手が違うわ」
「もちろんだよ。だからこそ、彼を呼んだのさ」編集長は自信に満ちた笑みを見せる。
「キミたちとアメリカ君が手を組むことで起きる核爆発を、僕は期待しているんだ」
「か……核爆発……」私は目眩を感じた。
「笑えない比喩ですね」25メートルプールに浮いたやかんのような顔で洋子が言った。




時刻は午後11時を回っていた。

何杯目になるかわからないコーヒーを無理やり胃に収め、私は煙草に火を点けた。
「ちょっと、喫煙所で吸いなさいよ」私には目もくれず、手にしたボールペンを額の中心に当てながら洋子は言った。
「固いこと言うなよ。もう俺たちと……あの男しかいないんだからさ」
私たちはハイパーメディア・クリエイターに目を向けた。彼は部屋の隅でおでんを煮込んでいた。

「あいつ、結局一日中ああしてたな……」
「うん……美味しいおでんだったけど……さすがにイラッとくるわね」

ハイパーメディア・クリエイターというだけあって、たしかに彼のつくったおでんは美味だった。


彼のつくるおでんはパリ・ルーヴル美術館に飾られる美術品のような崇高さと威厳とを併せ持っていた。その完成された味は完結したひとつの宇宙を私に感じさせた。味のしみ込んだ大根はよく晴れた3月の丘を私に想起させ、艶やかに光るゆでたまごはもう会うことのない女たちの乳房をささやかな思い出とともに立ち昇らせた。

結び昆布は噛み締めるごとに現世の闇を貫く光の槍のように私の全身を激しく突き抜け、後には光の平原と昆布の確かな食感だけが私の心に残った。ちくわぶは全宇宙を統べる総合意識の渦を七つに分かち、人類の意志を真の意味で解放せんとする絶対的存在の立場で私を優しく見守ってくれた。その瞬間に私の脳裏に飛来した光景、それは母なる大地、マザー・アースの原初の姿であった。こんにゃくの奏でる豊かなハーモニーは第一宇宙と第三宇宙をひとつに統合し、束ねられた記憶と共時性の波はネス湖ネッシーをも……



「しかしおでんづくりと雑誌制作は無関係だ」

私は自分の頬を力任せにはたきながら言った。


「米田君、今日はもういいよ。徹夜だったんだし帰りなよ」
洋子はよだれを垂らしながら目を白黒させている私を心配そうな目で見つめていた。


私はおでんやら宇宙やら高次元の絶対存在やらを頭の中から追い出すのに必死だった。


「そうだな……どうやら疲れがピークにきたらしい……」
私は携帯灰皿で煙草をもみ消し席を立った。
「明日はアメリカさんも交えて真剣に打ち合わせしないとね」
洋子もいささか疲れているようだ。


「あいつにどんな案が出せるんだか……」
吐き捨てるように私がそう言った瞬間、驚くべきことにハイパーメディア・クリエイターはおたまでゆでたまごをすくい、私に向けて投げつけた。
時速160km超の猛スピードでゆでたまごは私に向かってきた。


しかし私はゆでたまごの軌道が若干変化したことを見逃さなかった。


間違いない。
ありゃシンカーだ。


「あああぁぁ熱ぢいぃぃぃいぃぃッッ!!!」ゆでたまごは私の眉間にめり込んだ。
「へっへっへっへっへ……小生が何も考えていないとでもお思いですか?」
アメリカは結び昆布を口の端から垂らしつつ、不敵に笑った。

「だ、大丈夫?! 米田君っ……」洋子が私の体を支えた。
「ぐッ……野郎、とんでもねぇ球もっていやがる……!」
「小生が何の案も持たずにここへ来たとでも?」ちゅるりという音とともにアメリカは結び昆布を口にしまい込んだ。まるでどこぞのエイリアンといった風貌である。


「え……? まさか、すでに新規雑誌のアイデアがあるというの!?」
洋子と私の視線を真正面から受け止め、アメリカは大きく頷いた。
「もちろんですとも! そのために小生はここにいるのですッ!!」と、ハイパーメディア・クリエイターは胸を張った。
「ば、馬鹿な……」
「だったらおでんづくりの前にそう言いなさいよ!!」


だが、私の記憶はそこまでだった。


おそらく先ほどのゆでたまごで頭骨がパッカリいったのだろう。


全身が麻痺していくのを感じつつ、私はその場にくずおれた。


〜こんなくだらない話でも、後編へ続く〜