友人が離婚した 〜パニック・ルーム〜


友人が離婚した。

彼の奥さんとは何度も会っていたし、彼から奥さんの〝奇行〟に関する話も幾度となく聞かされていた。それは始め、恋人達や仲の良い夫婦の間では日本人の年間放尿回数よりも多く行なわれている、ハチミツよりも粘度と糖度の高いあの〝イチャつき〟なる行為に過ぎないように私には感じられた。なぜなら奇行とは言いつつも、彼は心底嬉しそうに奥さんのイタズラの話をしていたからだ。

 

例えばこうだ。「仕事から帰ったら、俺の部屋に飾ってある愛犬の写真がカナブンの写真にすり替えられててさぁ。俺をびっくりさせたくて、嫁さんが仕掛けてたんだよ」、あるいは「また嫁さんにやられたよ。俺が部屋で使ってるミニデスクの位置が帰宅したら変わっててさ。ホントくだらないイタズラばっかすんだよあいつ(笑)」といった具合だ。私の耳の中にはこうした友人夫婦の乳繰り合いの数々がキチンと額に収められ、鼓膜へと続く長い廊下の壁に1800点ほど飾られている。

 

しかし、ある日を境に彼の話しぶりに変化が見られるようになった。

あれは確か、彼とスシローへ行った時のことだ。

 

「昨日、家に帰ったら俺の部屋のソファと本棚とベッドの位置が変わってた」と彼は暗い表情で言い、「また嫁さんの仕業だったよ……。残業で疲れてたし、もういいやってそのまま眠ろうとしたんだけど、慣れない向きだからか中々寝付けなくて」と続けた。

私が冷やかし半分に「今日帰ったらまた位置が変わってたりしてな」と言うと、彼は「充分あり得る話だ。筋トレ用の腹筋台、テレビ、フィギュアコレクションラック……ほぼ毎日、俺の部屋の何かが勝手に移動してるんだ」と頭を抱えるのだった。私は彼がかなり深刻な状態であると判断した。というのも、しれっと自分が食べた分の皿を彼の皿の上に重ねても、そんなことは目に入ってもいない様子でうなだれ続けていたからだ。結果的に私は大半の皿を彼のテリトリーへと移すことに成功し、寿司を19皿食べたのに会計は440円で済んだのだった。

さすがの私も彼が気の毒になり、「帰ったら奥さんと真面目に話し、もう室内のイタズラはやめてほしいと伝えろ」と満腹感に浸りながらゲップ混じりにアドバイスしたのを覚えている。

 

それからしばらくして、悲劇は起きた。

 

「モウゲンカイダ」。電話口から聴こえるその声は感情が伴っておらず、思わず私も「ド・ウ・カ・シ・タ・ノ・カ」と喉にチョップを打ちながら機械的に応答したが全くウケず、心も喉も少々傷ついた。彼は「把手……自室のドアの把手が変わってたんだよ……」と消え入りそうな声で言った。

喉をさすりながら聞いたところによると、彼はいつも帰宅時は階段の電気を点けずにそのまま暗がりを上がり、自室へ行って着替えるのがルーティーンだったらしい。暗闇でもまるで見えているかのように危なげなく階段を上がり、自室のドアノブを苦もなく探し当てることは、すなわち〝これが俺の城〟という確固たる自信と安らぎを彼に与え続けてきた。闇の中で感覚だけでものの位置を当てるなんて芸当は、家の主にしか出来ないからだ。

 

勘を頼りに手を出しさえすれば、そこで主人の帰りを健気に待ち続けている把手がある……ハズだった。しかし、ドアの把手は、大いなる悪戯の力によりレバー型から円筒型へ変えられていたのだ!!  違和感とともに何度か闇の中で素振りをし、ようやく円筒型の新ドアノブの曲面に手が触れたその瞬間、彼は全てを悟った。俺の城? ……とんでもない。ここは初めから、全ての始まりから、嫁さんの城だったのだ!!

友人が全てを察したその刹那、階段の明かりが点いた。階下からひょこっと顔を覗かせ「驚いた〜? 室内はダメって言うから、業者呼んでドアノブ変えてみたw」と満面の笑みでおどける妻を見て、友人はいつの日か必ず、レバー型のドアノブの仇を取ると心に誓ったという。

 

この事件の後もいくつかの〝犯行〟の話を耳にしたが、もはや私には彼の怒りに燃えた瞳の印象しか残っていない。自宅という神聖な場所では、常に安定と調和が求められる。その神殿は保守という石の山を築いて造られなければならず、そういう意味では彼の嫁さんはあまりにも進歩的であり破壊の化身だった。

この世界に影響を与えた大人物が亡くなろうとも、国がひとつ滅びようとも、自室のベッド位置が本人の居ぬ間に変わることなどあってはならないのだ。ドアの把手に至っては、言わずもがなである。  

 

そんなワケで彼は今、住宅ローンの残っている神殿で一人穏やかに暮らしている。話し合いの結果、愛犬は元妻が所有権を得て引き取って行ったそうだ。 奥さんが去ってから、彼から家の話題はほとんど上がらなくなったが、「最近になってようやく暗闇でも違和感なく丸いドアノブを握れるようになったよ」とだけは教えてもらえた。

 

今、彼の宇宙は元の平穏を取り戻そうとしている。

しかし、それは本当の意味での復元ではない。

誰かが去るということも、何かを失うということも、もう戻らない〝あの頃〟をひとつ宇宙に生み出すだけに過ぎないのだ。

 

-了-