タクシードライバー

タクシーに乗り込むなり「前の車を追ってくれッ!!」などと叫んだのは、俺のチャーミングな出来心に過ぎなかった。


その日は何かとツイてないことが多く、サーロインステーキと同じ食卓に並べられた肉じゃがのような、シケた気持ちが心を満たしていたのだ。タクシーの運転手に「何言ってるんですかお客さん」とあきれられるなり笑われるなりすれば、それで少しは気持ちも晴れるのではないかと思っただけのことだ。


が、運転手は俺の予想外の反応を示した。「待ってやしたよ、こんな日が来るのを……」そう言ってバックミラー越しにニヤリと笑いかける運転手は、顔の青白い、窪んだ瞳の男だった。彫りの深い顔にしっかりと落ちた陰影が、墓の前に置かれたオムライスのような不気味さを男の表情に与えている。


「前の車を追えばいいんですね?」言いながら、運転手はすでに前方の車と同じく交差点を右折していた。「いや、あの……」冗談である事を伝えようとするも、運転手は俺の言葉を遮って「旦那、刑事(デカ)ですかい? あっしはね、タクシー稼業を続けていりゃあ、いつかこうしてでかいヤマに当たる日が来るって、信じてたんでさぁ……」と、前に割り込む車にクラクションを鳴らしまくりながら喋り続ける。どうやら、脳内に綺麗なお花畑を抱えているらしい。


どうしたものかと黙り込んで窓の外を眺めていると、タクシーは急に進路を変え、小道へと入った。「旦那、安心なさってくだせぇ。こういう場合、ホシは『埠頭』へ向かうと決まってるんでさぁ。方角からして、恐らく横浜港……あっしの庭でさぁ。先回りして待っていやしょうッ!」俺の返事などお構いなしに、運転手はアクセルを踏み込む。途中2、3台自転車をはね飛ばし、歩行者を数人あの世へ送ったことを除けば、男の運転技術は驚くほど安定していた。



ワケの分からぬまま、俺たちは横浜港へ着いた。すでに陽も落ち、辺りはマッコウクジラのケツの穴のような暗闇に覆われている。


運転手にうながされコンテナターミナルへやって来ると、「旦那、ハジキは持ってやすかい?」と男が胸ポケットから拳銃を取り出したので、俺は思わずタマキンをしぼませてひるんだ。「それ、それ、本物か?!」と腰を抜かす俺の前で、運転手は口の前に人差し指を持ってきて「お黙りなさいッッ!!!!」と絶叫した。


「旦那、大きな声出してホシに気づかれちゃあマズいでさぁ……荷役エリアは広い、ここは二手に別れやしょう」運転手はそう言って俺の肩をポンと叩き、「そうだ! 運転席の下に『ブラックジャック』が置いてあるんでさぁ。ええ? 漫画? 何言ってるんです、『ブラックジャック』ってのは、棍棒の通称でさぁ。車に鍵はかけてない、ハジキがないならそれを使ってくだせぇ」と言い残し、腰を低く落としながら暗闇の中に消えていった。


とんでもないことになってしまった……とりあえず俺は運転手が言っていた『ブラックジャック』と呼ばれる棍棒を取りに行くことにした。運転席の下を調べると、それはすぐに見つかった。革で出来た、ある程度の柔軟性を持ったしなる棒だ。こいつを思い切り頭部に叩き付けたら、ひとたまりもないだろう。


20分ほど経過しただろうか。どれだけ耳を澄ませても、聴こえてくるのは波の音だけだ。だんだん、俺はチャーハンの上に乗せられた白米のような、ひどくアホらしい気分になってきた。そもそも、いつの間にか俺もそんな気になってしまってはいたが、運転手の言うホシなんてものがこの埠頭にいるわけないじゃないか。



終電がなくならないうちに帰ろう……

そう思って歩き始めた瞬間、「パァン!」という乾いた音が辺りに響いた。



近い。すぐさま俺は身を屈め、周囲を見回す。あれに似た音を俺はドラマや映画で耳にした覚えがある……拳銃が発砲された音だ。「パァン!」再び発砲音が響くと同時に、俺は駆け出した。何もかもが間違っている。俺はこんなところにいてはいけない!!


が、どうやら俺は音のしたほうへと走ってしまっていたらしい。コンテナの影に人が倒れているのが見える。ブラックジャックを握る手に力を入れながら息を殺して近づくと、なんとそれはタクシードライバーであった。男は左胸を押さえながら、しゅう、しゅうと空気が抜けるような呼吸を続けている。


「旦那……ホシ…は……殺りやし…た……が…あっしも……一発……喰らっち……が、がふッ!!」男の口からは大量の血が吐き出され、見ると左胸にあてていた手は真っ赤に染まっていた。


「お、おい!? 嘘だろ?! 何がどうしてこうなる!?」

俺は泣きたい気分で叫んだ。


運転手はかっと目を見開き、「いいですかい旦那よく聴いてくだせぇあっしはもうダメです心臓を打ち抜かれちまってあっしの胸ポケットには車の鍵が入ってるんで今すぐこの場を離れてくだせぇというのもホシの取り引き相手がどうやらこの埠頭に向かってるらしくそいつらに見つかったら旦那まで危険な目にあっちまういいですかい早く逃げてくだせぇ」と弾丸ラップのごとくまくしたてると、「……が……ま……」と気になるひと言を残し、絶命した。



「お、おい!? 嘘だろ?! 何がどうしてこうなる!?」

俺は号泣しながら運転手の額にブラックジャックを振り下ろした。



さっきまでのことが嘘のように、俺は穏やかな流れの国道16号を走っていた。

このタクシーの運転手は、もうこの世にいない。


時刻は23時過ぎ。何が何だかわからない一日が、ようやく終わろうとしている。これから先のことなど考えたくもなかった。俺は疲れ果てているのだ。


交差点を右折してしばらく進むと、前方で俺に向かって手を挙げる美人がいたので思わずブレーキを踏んでしまった。が、何のことはない。彼女から見れば俺はタクシードライバーなのだ。


後部席のドアの開け方が分からないので助手席側のドアを開けると、美人は躊躇することなく体を車内に滑り込ませ「前の車を追って!!」と叫んだ。俺が動揺していると、女は「早く! 追って!!」ともう一度叫んで俺の目を覗き込む。


まったく、なんて一日だ……。

今日という日は一体いつ終わるのか。

いや、ひょっとしたら俺の一日などとっくの昔に終わっていて、すでに誰かの新しい一日の始まりの中に組み込まれてしまっているのかもしれない。


観念して肩を落とすと、俺は何かに突き動かされるように、アクセルを踏んだ。


〜 Fin 〜