*** 1 ***
ぎゅっ、ぎゅっと積雪を踏みしめる小気味好い音を響かせながら、イエティはヒマラヤ山脈を歩いていた。
剛毛で覆われた大きな右手にはiPodがすっぽりと収まっている。「TUBE」という日本のロックバンドの曲を聴きながら散歩をするのが、最近の彼の楽しみのひとつだ。
TUBEの曲を口ずさみながらしばらく歩くと、開けた場所に出た。
イエティは頭をガリガリと掻きながら巨体を揺らして辺りを見回す。
どうやら、道に迷ってしまったらしい。この広いヒマラヤ山脈ではよくあることだった。
しばらくの間イエティは考え込んでいたが、やがて、近くに生えている大木に向かって思いきり体当たりをし始めた。木に降り積もっていた雪が大きな音をたてて落ちてくる。イエティは構わず二度、三度と大木に向かって体当たりを続けた。六度目の体当たりで大木は前方に向かって倒れた。体に降りかかった雪をていねいに払い落とすと、イエティは大木の倒れた方へ向かって、再び歩き始めた……。
*** 2 ***
日本とイギリス、ロシアの有力な登山家3名によって編成された「雪男調査隊」は、調査開始から二週間目の朝を迎えていた。
体力、精神力ともに限界が見え始めてくる時期である。
しかし、雪男に関する手がかりは未だ掴めていなかった。
「やはり、雪男など存在しないのだろうか……」とため息をつくイギリスの登山家モーリス・ヘイを、神宮寺 隆明は睨みつけた。
「何を言っているんだ! 弱気になるんじゃない!! 雪男は存在する!」
神宮寺は厳しい剣幕でまくしたてたが、日本語のわからないヘイは肩を落とすばかりだった。神宮寺の英語能力はリスニングについては問題ないのだが、スピーキングとライティングはまるで話にならないレベルだった。
「た、大変だ!! 二人とも起きろっ!!」大声を上げながらテントに入ってきたのは、ロシアの登山家アレクサンダー・キリロフだ。神宮寺もヘイもロシア語はまったくわからないのだが、キリロフの緊張した表情は異常事態が発生したことを告げていた。
「外へ出ろ!! 雪男だ!! 雪男の足跡を見つけたぞ!!」
身振り手振りを交えてわめくキリロフに誘導され神宮寺たちはテントを出た。
雪山の冷たい空気が肌を突き刺す。
キリロフはなおも大声を上げながら前進していった。
慌てて神宮寺とヘイも続く。
雪の降り積もった茂みを懸命にかき分けながら一行は進んだ。
「わざわざこんな道を歩かなくてもいいだろうに……」ヘイがうんざりといった様子でつぶやく。
雪の茂みを通り抜けると、一面雪の絨毯で覆われた開けた場所へ出た。
「あれだ!! あれを見ろ!!」キリロフが指差したほうを見て、神宮寺とヘイは思わず声を上げた。
「ウ…ウンコが!?」と神宮寺。
「足跡が!?」とヘイ。
神宮寺は思わず駆け出した。ウンコの周りを慎重に一周し、ポーチからデジタルカメラを取り出した。
「馬鹿野郎……!!
それは俺がさっきした排泄物だ!!
そいつじゃなくてこれだ!!
この足跡を見ろッ!!」
キリロフが顔を真っ赤にして叫ぶが、言葉の通じない神宮寺はすでにシャッターを切っていた。
「な、なんだぁ、こいつは……?!
こんな馬鹿でかい足跡、見たことがないぞ!!」
ヘイは両手を頭にやり、悲鳴に近い声を上げている。直径50cmはあろうかと思われる巨大な人型の足跡が、雪の上にくっきりと刻まれていた。
「どうだ、この足跡! こいつぁヒグマの足跡なんかじゃないぜ!」キリロフがヘイの背中をばんばんと叩く。
「俺たちはとうとう見つけたんだ!! 雪男の足跡をなぁっ!!」
キリロフが声高に笑うのを見て神宮寺も寄ってきた。
「なっ……!? こ、これはっ……!!!」
「どうだい神宮寺!! 雪男のものに間違いないだろう!?」
キリロフは嬉しそうに肘で神宮寺をつつくが、神宮寺はかっとなってキリロフの肘を掴んだ。
「何をニヤニヤしているんだッ、馬鹿者が!! この足跡……これほどまでに大きな足跡は見たことがない!! おそらく、とてつもなくでかいヒグマがこの辺にいる証拠だぞ!! そんなものに襲われでもしたら、ひとたまりもない!! 我々は大変危険な状態にあるのだ!!」
真剣な表情でわめきたてる神宮寺の様子を見て、キリロフも思わず黙り込んでしまった。
言葉はわからなくとも、神宮寺の言っていることは大体検討がついた。そうだ。我々は雪男の正体を確かめるべく結成されたチームなのだ。足跡を見つけてうかれている場合ではない。こうして喜んでいる暇があるのなら、一刻も早く雪男の後を追わなければ……!
「……すまない神宮寺。俺たちには大事な使命があるんだった。この発見はその第一歩に過ぎない。足跡を追って、雪男を見つけよう!」キリロフは神宮寺の目をまっすぐに見つめ、話した。
「うむ! すぐにこの場を離れよう!!」言葉はわからなかったが、神宮寺は神妙な面持ちで話すキリロフの手をがっしりと握りしめた。
「おいおい、待ってくれよ……何を言ってるんだかサッパリだが、二人だけで熱くなられちゃ困るぜ」そう言ってヘイは神宮寺とキリロフの握手の上に手を重ねた。
「さて、問題はどこへ逃げるか、だな」神宮寺は二人の顔を見回す。
「この足跡の先に、雪男が……」神宮寺が何を求めて話しかけているのかはわからないが、とりあえず頷きながら、ヘイは前方を見つめた。
「よし……行こうぜぃ、お二人さん!」キリロフが意を決し歩き始める。ヘイも後に続いた。
すぐさま神宮寺が金切り声を上げた。
「どこへ向かうつもりだーーーーッ、貴様ら!!
足跡のほうへ進む馬鹿があるかッ!!」
キリロフは眉根を寄せて神宮寺を、続けてヘイを見つめた。ヘイも神宮寺の考えがわからず首をかしげた。
「いいか! 絶対にこっちだ!!」神宮寺は足跡とは反対の方向を指差しながらジェスチャーを続けていたが、はたとその動きを止めた。
「……いや、待てよ……? ひとまずテントへ戻るのが一番かもしれん……。
たしか登山学校でもそう教わった気がする……。危険を感じたら、まずテント。
私としたことが、気が動転していたらしい。 よし、やっぱりこっちだ! 一度引き返そう!!」
急に指し示す方向が変わったのでヘイとキリロフは呆気にとられたが、やがてヘイが神宮寺の考えに気がついた。
「そうか! テントだ!!
テントへ戻って、お前が荷物をまとめてきてくれるんだな?!」
ヘイのその言葉に今度は神宮寺が呆気にとられた。
「荷物をまとめる!? 私がか?!」
思わず神宮寺は自分を指差しながら叫ぶ。
その様子を見て、ヘイは親指を立てて叫び返した。
「頼んだぞ!」
このような傲慢さはイギリス人特有のものなのだろうか?
神宮寺はやれやれといった調子で頷いた。
「巨大ヒグマに襲われても知らんからな!!
私が戻ってくるまで、どこかへ身を隠しておけよ!!」
ヘイに一声かけると、仕方なく神宮寺は引き返して行った。
日本人のこうした姿勢を見て、ヘイは身が引き締まる思いだった。
キリロフもようやく事態が飲み込めたらしい。神宮寺の背中に向かって、日本人を真似るように一礼した。
「なるほど……。三人で引き返していたらそれだけ時間はロスされるんだものな。
よし! 荷物のことは神宮寺に任せて、俺たちはすぐにこの足跡を追おう!」
キリロフの様子を見て、ヘイは大きく頷いた。
言葉は通じずとも、俺たちは大いなる使命で繋がっている。
足跡の発見を機に、俺たちの絆は深まったのだ。
そうヘイは確信したとか、
しないとか。
〜了〜