自分の本心にそむけば、いっさいの楽しみ、いっさいの関心事が必ず現実から遊離する。
そういうことをする人の全生涯は、単なる一場の劇としか映るまい。
ナサニエル・ホーソン
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「僕は手先が器用なので、将来は、忍者になりたいです!! です です です……(エコー)」
小学校の卒業式での宣言から、もうじき15年が経とうとしている。
あの日、家に帰った僕の頬を本気で引っぱたいた母親も、今年で94歳を迎える。
月日が経つのは本当に、残酷なほど早い。
この15年の間、僕は忍者になりたいという気持ちを心の隅に抱えながら生きてきた。
忍者という存在に翳りが見え始めてきたのはおそらく例の失われた10年、90年代の中頃だと思う。
あの日、僕は中学校の歴史の授業で、織田信長が死んだことを知った。
ショックだった。
杉谷善住坊(すぎたに ぜんじゅぼう)を始めとして、多くの忍者が暗殺を試みては失敗に終わったあの名将が、死んだ……。
原因はプロパンガスの故障による寺の火事だったらしい。
僕は思わず席を立ち、大声で先生にこう訊ねたことを覚えている。
「先生ッ!! 織田信長は……本当に、本当に死んだのですかッ?!」
先生は呆気に取られて黙り込んでしまったが、やがてお漏らしをしてしまった老猫を見つめるような目で僕を一瞥すると、事務的な口調で「廊下へ出てろ」と言った。
廊下に何かあるのだろうか……?
怪訝に思いながらも席を離れると、クラスのみんなの視線は一斉に僕へと向けられた。
スーパーマリオをプレイ中、隙をみてドッスンの下を通るときのような緊張感が教室内を覆っていた。 この空気……間違いない。やはり、廊下に何かあるんだ……!!
意を決して廊下へ出た僕は、あまりの衝撃に自分の目を疑った。
思わず両目を力ずくで取り出して(筋の切れるブチブチという音が爆発音みたいに響いた)、ファミコンカセットをふーふーする要領で眼球に息を吹きかけてしまったほどだ。
あれ以来、僕はうまくものが見えなくなった。
「お……織田……!!!!」
授業中で誰もいないはずの廊下に、3組の織田栄一郎が立っていた。
織田は八王子のハンニバルと呼ばれる、有名な不良生徒だった。
クッパ大王を思い起こさせる凶悪な目。
金色の頭髪は逆立ち、天井を軽く撫でていた。
裸の上半身には無数の傷が刻み込まれ、
背中には当時人気絶頂だった安室奈美恵の曲「CAN YOU CELEBRATE?」の文字が彫られている。
喧嘩のために改造された脚には6000Vの電流が絶えず流れているという噂があった。
「お、織田、お前……どうして廊下に?!」
織田は犬の糞とカレーを3日煮込んで出来上がった何かを見るように眉根を寄せながら、
「げっ、アメリカじゃん……何だよ、お前もセンコーに廊下出されたわけ?」と言った。
お前も、というのが気になった。
織田が廊下に出ていたことは偶然ではないというのだろうか?
「ああ、そうなんだ。それにしても一体、これはどういうことなのだろう?」
「どういうことってお前……どうせまた、ワケのわからねぇことしでかしたんだろ? 俺は教室の後ろで流しそうめんやってただけなのによぉ、このザマだぜ。 ま、流してたのは、吉岡の臓器を切り刻んだものなんだけどなぁ! けぇぇぇっひゃはははははははははははははははhahahahaha!」
織田は唾液を垂らしながら大声を張り上げ、尻ポケットからつぶれた煙草の箱を取り出した。
そうか、吉岡くんは、死んだのか……。
「なあアメリカ、まだチャイムまで20分もあるしよ、煙草でも吸いに行こうぜ」
「そうだな」僕は頷いた。
こうして、ひょんなことから僕は織田と男子便所で煙草を吸うハメになってしまった。
今とは違い、当時はカードがなくても自販機で煙草が買えるシステムになっていたため、周りに喫煙者が多くいたのだ。
「ところで織田……その、お前はもう知っているのか……?」
「ああ? 何をだよ」
織田は口の端で煙草を上下に揺らしながら、興味のなさそうな視線をよこした。
「……織田信長が、死んだらしいんだ……。嘘じゃない。さっき歴史の先生がそう言っていた」
どうやら織田はまだ知らなかったらしい。僕の言葉に織田はむせ始めた。
「あ、あのさぁアメリカ。俺、お前のそういう、なんつうの? ギャグ? そいつが全ッ然理解できねぇんだよな……笑いの方向性が違う気すんだよ」 もちろん僕は冗談で言ったのではなかったが、織田自身、まだ信長の死を受け入れられないようだった。
無理もない。
僕だって、この歳になってもデマなんじゃないかと思っているのだから。
「あーあ、にしてもよぉ、学校ってつまんなくね?」織田は吸い終えた煙草を便器に放ると、流水レバーを蹴り上げた。
「つまらないなら来なければいいだろう。授業の邪魔をする者には去れと言いたい」僕は語気を強めた。
「……。俺ら実際去ってるじゃねぇかよ……」織田はそう言うのがやっとだったようだ。
僕らはひっきりなしに煙草を吸った。
お互い共通の話題は皆無だったので無言の時間も多かったが、唐突に織田がこう切り出すので僕は驚いた。
「なあアメリカ。お前、将来の夢とかあんの?」
どう返せばよいのか、言葉に詰まった。
忍者のことが頭によぎったが、暗殺のターゲットだった信長はもういない……。
信長の没落により時代も変わるだろう。
ただでさえ時代の流れに取り残されつつある忍者業に、果たして未来はあるのだろうか?
僕は急に不安になった。日光江戸村で働くなんてまっぴらごめんだ。
あそこは……忍者の墓場だ……。
黙り込む僕を気遣ってか、織田は意外にも自らの夢を打ち明けた。
「俺さ、海賊になりたいんだ」
今度は僕がむせる番だった。
「か……海賊ぅ!?」
「ああ! 族って言うと、バイク乗って暴走したりすんのを思い浮かべんだろ?
海賊は違う。同じ族でもスケールが全然違ぇんだよ!!」織田はそう言って嬉しそうに笑った。
「族って……字が違うじゃないか」
僕が言うと、織田は片目を瞑ってみせた。
「これが俺のギャグだよ、アメリカ」
自分と大差ないじゃないかと思ったが、何だか忍者に対する不安が馬鹿馬鹿しいことのように思えてきて、僕は笑った。
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月日は多くのものごとを変えた。
今では冠婚葬祭のとき以外、誰も忍者のことなど口にしない。
誰も、鎖がまなど持ち歩かない。
放送時には街から人類が消えるとまでいわれた忍者ハットリ君も、放送終了に追いやられてしまった。
もう誰も、ミュータント忍者タートルズのメンバーの名前を正確に答えられないのではないだろうか。
そう……
今ではみんな、元メンバーなのだから。
時代はすっかり変わってしまったのだ。
僕はというと、おかしなもので、デザイナーをやっている。 人の歩む道は本当に奇妙で、少しだけ、切ない。
最後に織田の話をしておこう。
中学の同級生、織田栄一郎はその後「尾田栄一郎」というペンネームで漫画家デビューしたそうだ。
ワンピースという作品を少年ジャンプで連載しているらしい。
おかしいのはその漫画の内容だ。
なんと、『海賊』が主人公なのだという。
まったく……これにはまいってしまった。
『 俺さ、海賊になりたいんだ 』
織田はあの頃語っていた夢を漫画という形で叶えたのだ。
人の歩む道は本当におかしくて、少しだけ……
優しい。
〜Fin(※当たり前のことながら、すべてフィクションです)〜