禅話1 〜伸びたウンコの禅との出会い〜

今、私の中で空前の〝禅〟ブームが起きている。天国でも死者を集めてプレゼンをし続けているというスティーブ・ジョブズが生前にハマっていたという、あのZEN〈禅〉だ。

 

遡れば元々、私は座禅や瞑想というものに興味はあった。以前発売した電子書籍『無職日記』にも書いた通り、株の売買にあけくれるしょうもない無職だった私は、一方で〝ナンダカンダで働かずとも生活できてしまっているジブン〟にどういうワケかある種の罪悪感を覚えてもいた。

 

そんなウンコをのし棒で引き伸ばしたような日々に正当性を持たせようと、私は株式市場が閉まると30分間見よう見まねで瞑想を行なっていたのだ。「何を言ってるんだコイツは」とお思いになられるであろう。私自身、こうしてあの頃を振り返りながら「何を言ってるんだコイツは」と思う。だが当時の私にとって、瞑想の30分間は伸びきったウンコを浄化する神聖な時間だった事は確かだ。

 

30分の瞑想を終えるとなんかこう、〝今日も健やかに過ごせてる!〟という充実感のようなモノが不思議と体を巡り、デイトレに失敗してヤケになり酷く手荒にTENGA股間にハメていた自分の事など、人生の岸辺の端に流せたような気分になれたのだ。無論、TENGAだけは必ず人生の川の流れに乗って私の元へ戻って来ていたのだが……。

 

そのようになんちゃって瞑想をしていただけの私が本格的に禅に興味を持つようになったのは、剣の達人らによって書かれた剣術書の影響が大きい。 私が敬愛する山岡鉄舟や沢庵和尚、剣豪・宮本武蔵も、優れた剣術家はみな座禅を経て〝最強〟の境地へ至っていることを名書『剣禅話』や『五輪書』で明かしている。私は剣の道ではなく拳の道、ボクシングを続けているが、常々考えている〝強くなる為に最も必要な事〟を探すうちにこうした剣術書に目を通すようになり、今では愛読書としてお気に入りのエロ本以上に精読しているのだ。

 

もちろん瞑想と禅は成り立ちからして全く違うものなので同列には扱えないが、私と禅(瞑想)の出会いはざっくりと以上のようなものであった。

 

禅の話は中学時代の臼井校長の朝礼スピーチ並みに長くなるので、貧血で倒れてしまう女子生徒の為にも分けて書いていこうと思う。私はここから本格的に禅の考え方を学び、瞑想から禅へと移行し、禅語に魅了され、ついには禅寺へ通うようにまでなるワケだが、それは次回以降の雑文にて。