読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

Every Time We Say Goodbye

物語・短篇 ノスタルジー

高ければ高いほどいいのよ、とあの日彼女は言った。


「もちろん夜景が見たいからなんて理由じゃないわ。私はエレベーターで彼の部屋まで上がって行くあの時間が好きなの。彼の住む階まで運ばれて行くあの時間が」
彼女はそう言ってコーヒーに口をつけた。瞳は射抜くように僕の顔の中心に据えられている。彼女はいつもそのように、相手の顔をじっと見つめながら喋った。見つめるというよりは覗き込む、という表現のほうがしっくりくるかもしれない。彼女の瞳はいつだって自信に満ち、熱を帯びているように感じられた。


「つまり、男の部屋に着くまでの時間が長ければ長いほどいいってこと?」
と僕は特に興味もなく聞いた。実際、そんな話にはほとんど興味がなかった。
「それもあるけれど、エレベーターってわたしには違う世界への入口なのよ。エレベーターに乗って好きな人の部屋に向かっている間、わたしは自分が刷新されていくのを感じる。いつもこう思うの、わたしはこれから別の世界へ入って行くんだって。長い時間エレベーターに乗るのって、なんていうか……とても非日常的な体験なのよ」
世の中には複雑で、込み入った感性の持ち主がいるようだ。僕にも高層階に住む恋人がいれば、そのような感覚を理解できるのかもしれない。


しかし僕は彼女がずっと昔、こんなふうに話していたことを覚えている。
「彼の運転で遠くへ行くのって好きよ。二人きりで車で移動してるとそのうち会話ってなくなるでしょう? わたしはあの沈黙が生まれたら、音楽も切るようにしてるの。彼には当然嫌がられるけど。エンジン音だけが静かに響くあの空間に二人でいると、なんだか新しい世界が生まれたような、二人っきりの世界にポンて放り込まれたような、そんな気分になるの」
どうやら別の世界へ行く方法というのは色々あるらしい。


「彼は何階に住んでいるの?」と僕は聞いた。
彼女は「43階」と答え、「アメリカ君は何階だっけ?」とおどけてみせた。
もちろん彼女は僕が何階に住んでいるのかも、それがどれだけみすぼらしい住まいなのかも知っている。

43階……僕には想像もできない世界での暮らしだ。



彼女とは20代の初め、スポーツジムで出会った。

彼女は僕より8つ年上だったが、幼い顔の作りと引き締まった体からは年齢の差など微塵も感じられなかった。僕らは同じ格闘技のスタジオプログラムを選択していた。当時流行っていた「PRIDE」という総合格闘技イベントに夢中だった彼女は格闘技オタクだった僕と話が合い、その内に二人でPRIDEを観戦しに行く仲になった。

格闘技人気が奇麗さっぱりなくなった現在では想像しにくいかもしれないが、当時のPRIDEはカップル客が異常に多く興行自体も華やかな演出に彩られ、格闘技というよりはショーといった色合いが強かった。僕はあの頃の日本の格闘技ブームを思い返すたび、あれは夢だったのではないかと不思議な気持ちになる。当時の熱や東京ドームを埋め尽くしたファンたちは、一体どこへ行ってしまったのだろう? 

彼女と同じように、エレベーターや車に乗って別の世界へ消えて行ったのだろうか?


しかし彼女に関して言えば、それは比喩ではなかった。

彼女は文字通り別の世界へ消えて行ったらしかった。少なくとも今のところは。


43階に住む男の話を聞いてから2年間、彼女からは何の連絡もない。こちらから電話をかけたりメールしたものの反応はなかったので、僕としてもまあそういうものか、という感じで取り立てて気には止めなかった。というのも、こうした突然の失踪というのが彼女には度々あったからだ。



ジムで出会った数ヶ月後に、彼女は姿を消した。部屋の灯りでも消すように、彼女はとても自然に姿を消した。連絡がつかないまま5ヶ月ほどの時が過ぎ、ひょっとしたらもう彼女に会うことはないのではないかと思い始めたある日、彼女から電話が掛かってきた。

「コーヒーでも飲みましょう」と、まるで一昨日にも会ったような口ぶりで彼女は言った。
消えるのも自然なら現れるのも自然なのだ。


それが僕が初めて経験した彼女の失踪であり、二度目の失踪は9ヶ月、三度目は6ヶ月ほどだったと記憶している。最長で1年ちょっとの間連絡がつかなくなった時期があったが、やはり彼女は突然電話を掛けてきて、僕をコーヒーに誘い「たったの1年じゃない」と笑うのだった。



失踪の理由は実に様々だ。

あるときは絵描きの男と日本を周っていたと彼女は言った。

またあるときは海外赴任になった恋人についていったと彼女は言った。

そしてあるときは男の運転する車に乗っているうちに生まれる新しい世界の話をしたし、最後に会ったときはエレベーターに乗って別の世界へ行く話をしていた。

彼女の生きる世界は情熱に満ちあふれ、なによりユニークなのだ。



僕はときおり、何かのタイミングでふと彼女のことを想い出したとき、こんなふうに考える。


彼女の乗るエレベーターの行き先階はどんどん高くなっているのではないかと。
彼女の乗る車の行き先はどんどん遠くなっているのではないかと。


行き着いた先があまりにも高くて、あまりにも遠くて、戻ってこられないのではないかと。
あるいはそこがあまりにも高くて、あまりにも遠くて、僕の存在などまるっきり見えやしないのではないかと。


しかし彼女のことだからまたひょっこり、何の前触れもなしに突然帰ってくるかもしれない。


そしてそのとき彼女はコーヒーに口をつけ、自信に満ちたあの目で僕を見て、


「たったの2年じゃない」と、笑うのかもしれない。


〜Fin〜