もっくんはきっと何かに悩んでいて、けれどわたしにはその悩みが何なのか、さっぱりわからない。
最近、もっくんは自分が流れてきたあの川のほとりで毎日考え事をしている。
その姿はどことなくわたしを不安な気持ちにさせる。
犬なんかは鬼ヶ島から帰ってくるなり自分の銅像を渋谷にこしらえてハシャいでいるし、猿もお金にものを言わせて毎晩女の子たちと飲み歩いている。キジはつい最近、日本野鳥の会の会長に就任した。
もっくんも村に戻ってきてしばらくはテレビや雑誌の取材を引き受けたり、わたしをデートに誘ってくれたりもした(それはとてもとても、珍しいことなのだ)。もっくんときたら、砂に埋まった角砂糖並みに奥手なのだから。
けれど最近は日が暮れるまで川のほとりに座り込んでいて、わたしのことなんてちっとも構ってくれやしない。わたしは最後にもっくんに抱かれたのはいつだったかな、なんてことを考える。それがもうひと月半以上も前であることに思い至り、わたしはからっぽのペットボトルみたいな気持ちで洗濯機を回す。この洗濯機も、もっくんが鬼ヶ島から持ち帰ってきた千両箱に詰まっていた小判で買ったのだ。もっくんが村のみんなに洗濯機をプレゼントしたおかげで、今では誰も川で洗濯などしない。
川……
わたしはあの川のほとりに腰を下ろす彼の背中を頭に描いて、それがとてもさびしい光景であることに気づく。わたしはいつから、こんなにもさびしい彼の背中しか思い描けなくなってしまったのだろう。幼い頃川のほとりに腰を下ろし、おばあちゃんがこしらえたきびだんごを一緒に食べたもっくんの姿を、わたしはもう、うまく想い出せない。
*
この村に再びあの凶悪な鬼たちがやってきたのは、それから2ヶ月ほど過ぎた春の晩だった。
村中に響き渡る悲鳴でわたしは飛び起き、すぐさまおじいちゃんとおばあちゃんの寝室へ駆け込んだ。
「桃太郎!……うむ、何じゃと?! 鬼が攻めて来た!?」
おじいちゃんはiPhoneを使って早速もっくんに連絡を取っていた。
もっとも、おじいちゃんが電話をかけたその頃には、彼はもう鬼とにらみ合いを展開していたのだけれど。
戸を叩く音とともに犬の叫ぶ声が聴こえてきて、わたしは玄関へ向かった。
「大変だワン! 鬼が村に……!!桃のアニキ一人で応戦中だワン!」
「わかってるわ、お願い、猿とキジを呼んでもっくんを助けて!わたしはおばあちゃんときびだんごを用意するっ」
きびだんごのひと言に犬の目がギラつくのがわかった。
彼ら鬼討伐対メンバーはどういうわけか、おばあちゃんのつくるきびだんごに目がないのだ。
*
きびだんごを抱えて村の広場に近づくにつれ、キィン、キィンという金属音が大きくなっていく。
もっくんが戦っているんだ。
息を切らせてわたしは彼のいる広場へと駆け、近くの茂みに身を潜めて眼を凝らした。
鬼が金棒を振りかぶったその瞬間、もっくんは瞬時に鬼の懐に潜り込み、刀を勢いよく鬼の腕めがけて振り上げた。
おびただしい量の血とともに切断された鬼の腕が宙空を舞う。
両手で刀をきつく握りしめたもっくんは続けて鬼の腹へ刀を突き刺す。
地響きするような断末魔を上げ、鬼はその場にくずおれた。
全身の筋肉が連動している、一切無駄のない身のこなし。氷のように冷たく鋭い眼光。大量の返り血を浴びても動揺する気配は微塵も感じられない。刀を抜いた彼はわたしの知っているもっくんではない。今わたしの目の前にいる剣士は村を救った英雄、桃太郎なのだ。
もうひとつ断末魔が響く。猿、キジ、犬も力を合わせ鬼を一匹退治したようだった。
わたしが知ることのなかった一面……彼らもまた英雄であることをはっきりと認識させられる。
「楽勝だったな! 残すは小鬼一匹だ! さっさと片付けてキャバクラに戻りてぇ!」
舌舐めずりをしながら猿が叫ぶ。しかし、もっくんは鬼と見合ったまま動かない。
「どうしたってんだアニキ? アニキがやらないんなら、ミーが……」
鬼に詰め寄ろうとしたキジをもっくんが片手を上げて制す。すると何かに気づいたように犬が声を上げた。
「あ…! ひょっとして、そいつはあの時……アニキが鬼ヶ島で見逃した小鬼じゃないかワン!?」
もっくんの肩がぴくりと動くのがわたしには分かる。きっと、犬の言う通りに違いないんだ。
子どもの鬼だから、もっくんは刀を抜くことが出来なかったに違いない。彼はそういう人なんだ。
「見逃してやったってのに、こうして村へ復讐しにきたんだな…!
鬼なんかに同情したのが間違いだったんだ! こらしめてやろう!」
鬼に飛びかかろうとした猿を止めようともっくんが視線を外したその瞬間、小鬼は目にも止まらぬ速さでもっくん目がけて体当たりした。鈍い音とともにもっくんの体が跳ね飛ばされる。
すべてに片がついたのは、追い討ちをかけようと小鬼が地面に転がったもっくんに覆いかぶさろうとしたその一瞬だった。
もっくんは瞬時に態勢を立て直し、飛びかかる小鬼と交錯した。
おそらく無意識だっただろう。もっくんの閃光のような一撃が、小鬼の腹を裂いた。
絶叫を上げたのはもっくんだった。
小鬼は声ひとつ上げることなく血だまりのなかに体を沈めた。
あとのことはよく覚えていない。
わたしは耳を塞いで地面に突っ伏していたから。
彼の叫びが、あまりにも辛かったから。
*
もっくんは何かに悩んでいて、わたしにはその悩みが何なのか、さっぱりわからなかった。
けれど、あの晩の翌日にもっくんが再び大きな桃の中に入り誰にも挨拶をせず川を下って行ってしまったことで、わたしは彼の孤独を少しだけ感じ取ることができたような気がしている。わかったような気になっているだけかもしれないけれど。
もっくんが村を去ってから川には再び人が集まり出した。
村を救った英雄の無事を祈るため、多くの人々が川へ集った。
でも、わたしは英雄のためには祈らない。
わたしは、あの頃川のほとりで一緒にきびだんごを食べた男の子のために、祈る。
*
当然のことだけれど、おじいちゃんもおばあちゃんもわたしの決断をひどく心配した。
「危険なのは鬼だけではない、村の外にはお前の知らない世界が広がっておるんじゃぞ」
「本当に大丈夫なのかい? 桃太郎がどこに行ったかもわからないのに……」
「僕らがついてるんだから平気だワン!」
犬がおじいちゃんたちに向かってひと吠えする。猿とキジも力強く頷く。
わたしはおじいちゃんとおばあちゃんにとびっきりの笑顔を向ける。
「だいじょうぶよ。わたし、きっともっくんにまた会える。そんな気がするの。
彼を連れて必ず帰って来るわ!」
そうしてわたしは犬と猿とキジを連れて旅に出る。
もっくんを探す旅に出る。
腰には彼が大好きだったきびだんごを下げて。
彼に出会ったら、たらふくきびだんごを食べさせてあげよう。
そして、彼がもう二度と何処へも行かないようありったけの優しさで包んであげよう。
そんなことを、わたしは考えたりしている。
〜 Fin 〜