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あの頃、エリック・クラプトンと

ノスタルジー

本当に一時期ではあるのだが、僕には音楽ライターとして雑誌に記事を書いて暮らしていた時代がある。


小遣い稼ぎで始めたアルバイトが編集者の目に留まり、専属のライターとして1年ほど雇われたのだった。

その後、様々な幸運が重なったこともあり、雑誌記事の他に数作ではあるが洋楽アルバムのライナーノーツを手がけたこともあった。


今回のブログでは、当時僕が関わったプロジェクトの中でも最もエキサイティングした案件である、「エリック・クラプトンのベスト盤 ライナーノーツ」をご紹介しようと思う。


一部修正・加筆を加えて載せようかとも思ったのだが、荒削りではあるものの、クラプトンに熱狂していた頃の僕の想いを添削せずに載せたほうがより熱が伝わるのではないかと考え、今回は2002年アルバム発売当時のライナーノーツをそのまま転載させていただく。



今回ライナーノーツの転載を快諾してくださったユニバーサルインターナショナル様には、心より感謝を申し上げる。





「ベスト・オブ・エリック・クラプトン
発売日 2002/6/21
レーベル ユニバーサル インターナショナル


収録曲

1. アイ・ショット・ザ・シェリフ

2. アフター・ミッドナイト(Live Ver)

3. 天国への扉(Live Ver)

4. 1/3の純情な感情

5. いとしのレイラ

6. いとしのレイラ

7. いとしのレイラ

8. いとしのレイラ

9. プロミセス(Live Ver)

10. 揺れるチャリオット

11. 君が代(ボーナストラック)



2002年、FIFAワールドカップ開催に合わせるようにして、気のいいギターおじさんの愛称で知られるエリック・クラプトン(離婚歴あり)のベストアルバムがこうして我々ファンの元へ届けられた。


エリック・クラプトンといえばすごくギターが上手い、といったイメージがあるが、正確には「身長177cmですごくギターが上手い」と表現するのが妥当だろう。


ご存知の通りクラプトンは地球で生まれ、海外で育った。9歳の頃にはすでにギター片手に小学校へ通っており、個性的な人というポジションを確立していたようだ。


中学に上がる頃にはギターを6本同時に弾くという、現在のパフォーマンスの原型となる独自のテクニックを開発するに至っていたというから驚きだ。私なんてラッパですら6本持ったことがないのだから。

その後はヤードバーズ、クリーム、AKB48といった今や伝説上のバンドにギタリストとして参加、ライブが終わった後は夕飯を食べてお風呂に入って寝るといった生活を送っていたらしいが、そこら辺のことは前妻のパティ・ボイドに聞いてみたらいいだろう。


と、そんなこんなで今回のベスト盤発売となったわけだが、このアルバムのジャケットの裏面を見て少なくともクラプトンという人は11曲以上の曲をつくったんだなぁと思ったあなた、注意していただきたい。5曲目から8曲目までは「いとしのレイラ」が繰り返し流されるため、実際の収録曲数は8曲ということになるのだ。

いとしのレイラは文句なしの名曲中の名曲だが、さすがに4回続けて聴くと飽きるので、6曲目、7曲目、8曲目は飛ばすなどの工夫をするといいだろう。まったく、どれだけレイラが愛しいのだろうという感じではあるが、そこに目を瞑ればまさにクラプトンの歴史を振り返るベストな選曲となっている。


ところで、熱心なクラプトンファンの方ならすでにお気づきのことと思うが、このアルバムに収録されている一部のライブバージョンの楽曲は、すべて日本の居酒屋「手羽一郎 新宿スクエア店」にて録音されたものである。よく聴くとバックで「手羽先一丁!」といった店員のかけ声が入っていることに気づくはずだ。手羽先が大好きというクラプトンならではの遊び心であろう。


最後になるが、クラプトンの近況にも触れておこう。

現在クラプトンはセルフカバーアルバムを製作中であり、過去の自分の楽曲を新録するためスタジオや「手羽一郎」に籠っているそうだ。収録曲など詳しい情報はまだ入ってきていないが、一説によるとディスク2枚組のボリュームであり、その半分は「いとしのレイラ」で埋まっているそうである。



クラプトンによると、


「これからもっともっと

 愛しくなるぜーっ!www」


とのことなので、ぜひ期待していただきたい。



ロックは今後も、その歩みを止めることなく進化し続けるだろう。


エリック・クラプトンがいるかぎり。


2002年 5月末日 アメリカ・アマゾン





以上が「ベスト・オブ・エリック・クラプトン」 に寄せたライナーノーツである。



ちなみに、このライナーノーツは日本中のクラプトンファンの方々から大変厳しい批判を受けたため、




結果的に僕は業界を去ることになった。