何かが壁に叩き付けられるような低く鈍い音が、根岸の目を覚ました。
音は二度、三度と続く。
五度目のひと際大きな音がしてからしばらくは静寂が戻ったが、やがて先ほどよりも数倍激しい調子で断続的に音が聴こえてくるようになった。ときおりチェーンソーが回転するような音まで響いて、根岸はため息まじりにベッドから身を起こし、隣で眠る妻に目をやる。これだけ大きな物音が鳴り響いているというのにまったく意に介さず眠り続ける妻に驚きながら、根岸は音の正体を確かめに部屋を出た。
廊下に出ると、宿泊客たちが根岸の部屋の二つ隣のドアの前に集まり、ひそひそと声を落として話をしていた。
集団の先頭にいる若い男がドアを叩きながら「小野谷さん! 小野谷さん!」と叫んでいる。
音は部屋の中から聴こえてきており、その勢いは激しさを増すばかりだったのだが、ふいに騒音がぴたりと止んだ。
急に耳が遠くなったような気持ちの悪さを感じながら根岸がそばにいる老人と目を合わせた瞬間、ガラスが割れる炸裂音が部屋の中から響き、宿泊客たちは弾かれたように体を震わせて驚いた。
だがそれっきり、今度は本当に物音ひとつしなくなった。
再びやってきた静寂を「鍵! 鍵です!」と叫びながら息を切らせて階段を駆け上がってくるホテル従業員の声が割り、ドアをノックしていた若い男がひったくるようにして鍵を受け取ると、すぐさま部屋のドアを開けた。
誰もが騒音から部屋の惨状を想像していたため、部屋に足を踏み入れた宿泊客たちはしばらくその違和感を捉えることができなかった。初めに声を上げたのはドアを開けた若者だった。
「冷蔵庫が……多い……?」
根岸の泊まる部屋と同様、ベッドのそばには小さな冷蔵庫が置いてあるのだが、奇妙な事に同じ型の冷蔵庫が隣に二つ並んでおり、全部で三つの冷蔵庫が部屋に置かれていることになる。そしてさきほどの炸裂音が示した通りベランダに面した部屋の窓ガラスは粉々に砕け散り、床一面にはガラス片が散乱していた。
よく見ると壁がへこんでいる箇所があったり汚れが目につきはするものの、それまで鳴り響いていた音の激しさを考えると、部屋の様子はかえって不気味にも思えた。
「どういうことだ……?」ホテルの従業員が冷蔵庫に近づいた瞬間、部屋の外から「危ないですよぉ!」という怒鳴り声がして、片手にチェーンソーをぶら下げた大男が息を切らせて体を左右に揺すりながら、入口付近に固まっていた宿泊客を押し分けて入ってきた。
「床にはガラス片が散らばっとるでしょうがぁ!
危ないから近づいちゃいけません!」
大男は大量の汗を流しながらのしのしといった感じで歩み寄り、恐ろしく大きな手で従業員の頭部を掴むと、そのまま勢いよく壁に向かって叩き付けた。
ズンッ、という重低音にパキャッという乾いた音が重なり、続いて従業員の「あぅ……」という弱々しい声と血の混じった泡が口から吹き出してくる濁った音が重なって、大男が手を離すと従業員はそのままずるずると壁に血を塗りたくりながら膝から落ち、失神した。
大男はチェーンソーをベッドの上に放ると、腰につけているポーチから丈夫そうな太いロープを取り出し、冷蔵庫を順に縛り始めた。
「ここはもう大丈夫ですから、夜も遅いですし皆さんは部屋に戻ってお休みくだせぇ!」
大男は冷蔵庫をロープで縛る作業を続けながら声を張り上げ、根岸たち宿泊客も何が大丈夫なのかはよく分からないがとりあえず部屋に戻るかと顔を見合わせたそのとき、若い男の絶叫が宿泊客らの耳をつんざいた。
声はバスルームから聴こえてきたようだった。
恐る恐る脱衣室へ移動しバスルームを覗いた根岸は、その異様な光景に絶句した。
バスルーム内に充満した鉄分の強烈な匂いから、根岸はそれを血と認識した。
壁一面に飛び散った、赤黒い血。
開かれた浴室扉の前で尻をついて呆然とする若者。
「血だ! 血だ!」
宿泊客らの叫び声。
それはすぐ後ろから聴こえてきているはずなのに、
根岸にはその距離感がうまく掴めない。
どこか遠い場所から響いてくるような気がする。
喉が渇く。
呼吸がうまくできない。
そういえば……
この部屋の客は、どこへ行ってしまったのだろう?
根岸はひどく鈍い動作で若者を立たせると、よろめきながら脱衣室を出た。自分の意識が遠のきつつあるのがわかる。枷をかけられているように体が重い。けれども根岸はとにかく若者を連れて寝室へと戻った。
大男はベランダへ出て、下に向かって何か叫んでいた。
冷蔵庫が三つともなくなっていることに根岸は気づいた。近くにいた老人がベランダへ目を向けながら「冷蔵庫を外へ運んでおるんじゃ」と教えてくれた。たしかに大男は両手でロープを握り、ゆっくりと下ろしているように見える。
やがて作業を終え、大男は満足そうな顔で部屋の中へと戻り、ベッドの上のチェーンソーを拾うと「皆さん! ご安心くだせぇ、すべて終わりました!」と言って吹き出すように大声を上げて笑い出した。
大男があまりに楽しそうに笑うものだから、なんとなくつられて笑い出す宿泊客もおり、肩を揺らせて笑う老人の目配せになんだか根岸も愉快な気分になってきて、そのうちに床に座り込んでいた若者も立ち上がり、腹を抱えて笑い始めた。
「あははははははははははははははははははは」
「あははははははははははははははははははは」
「あははははははははははははははははははは」
大男はニコニコしながら部屋を出て行き、宿泊客たちも「もう安心だな」「安心らしい」とクスクス可笑しそうに笑いながら自分の部屋へと戻っていった。
若者は恥ずかしそうに根岸に頭を下げ、
「あの、さっきはありがとうございました……
にしても小野谷さん、どこ行っちゃったのかなぁ?」
と頭を掻きながら部屋を出て行った。
老人は雑巾のように体を投げ出して倒れている従業員の目を指でこじ開け、ペンライトを眼球に当てていたが、根岸と目が合うと何も言わずに首を横に振った。
根岸は妻を起こさないよう明かりをつけずに部屋へ戻ったが、ベッドは空だった。
冷たい風が根岸の頬にぶつかる。
どうやら窓が開いているらしい。
月明かりを頼りにベランダへ出てみたが、妻はいない。
トイレにでも行っているのだろうか、と思った次の瞬間、根岸は後ろを振り返った。
しかし、あるべきものがそこにはなかった。
冷蔵庫は、消えていた。
そして根岸は額に汗がじわじわと浮かんでくるのをはっきりと意識しながら、
バスルームを覗くべきかどうかを考えた。
了