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9つの街 後編

物語・短篇 ノスタルジー

水玉模様のカエルの脚の端っこをそうっと爪でつまみ、わたしは意を決してそれを鍋の中へ放った。

鍋にたっぷり入っている淡いオレンジ色の液体にとぷんという音を立ててカエルは沈んでいき、小さな破裂音とともに水色の煙が一筋立ち昇る。

「あの……溶けちゃったんですか、カエル……?」

わたしがおっかなびっくりみどり先生に聞いてみると、先生はカールした髪の毛に指を通しながらいたずらっぽい目を光らせて「まだピンピンしてるわよぉ」と笑い、「ゾバナポンのうろこをひとかけら、モチマミの粉を大さじ二杯、ポルボの実を……」と喋り始めた。わたしはすぐさま頭を切り替えて、先生の指示する通りに材料を鍋に入れていく。

「……サクナナの葉をひとつかみ、ソラニ産のジャムを、そうね、好きなだけ入れてごらん」
ジャムは入れれば入れるほど石けんの香りを強くする、たしか昼間の講習でみどり先生はそう言っていた。きつすぎる香りはきらい。わたしは小さじで二杯ジャムをすくって鍋に落とし、鼻を近づけて匂いを嗅ぎ、やっぱりもうひとさじだけジャムをすくって鍋に入れ、ゆっくりと木杓子でかき混ぜた。



「ちょっとトロイところがあるけれど、ま、飲み込みの良さはなかなかね」
出来上がった石けんを差し出しながらみどり先生は言うのだけれど、わたしは石けんの気味の悪い形に思わず手を引っ込めてしまい、そんなわたしを見てみどり先生は髪をふわふわ揺らしてクスクス笑い出した。
「石けんから泡ガエルの脚が一本生えちゃってるのが怖いんでしょう?
 脚が残ってしまったのはね、かき混ぜるのが少し早かったから。
 もっとっもっと、ゆっくりでいいのよ」

わたしはカエルの脚が飛び出した石けんを恐る恐る受け取って、すうっと鼻から息を吸い込んでみる。ソラニの街で嗅いだ花の香りが時間をかけて胸いっぱいに広がって、ほんの一瞬、わたしの耳に早苗の声が響いた。





午後を少し回ったばかりのおだやかな陽を受けて、わたしは川原に座って石けんをまじまじと見つめている。

昨晩久しぶりに手に取った進路選定ガイドだけれど、ちゃんと目を通したのはあれが初めてと言っていいくらいで、石けん職人のみどり先生のこともそのとき初めて知り、こうして一応石けんづくりを体験してみたもののそれがわたしに合っているかはやっぱりわからなくて、わたしの街巡りはほんといつもこんな感じであれが合っているかな、これが合っているかな、なんて迷ってばかりで結局答えが出せず、そんなふうにわたしがうじうじしているうちに綾花も唯も早苗も自分の街を決めてしまっていた。

「石けんづくり、楽しかったじゃない」
わたしは自分に言い聞かせるように、カエルの脚つき石けんに向かってつぶやいた。


この後はもう一件フイミルの職人さんを訪ねることになっているけれど予定の時刻まではまだ時間があって、喫茶店でコーヒーでも飲もうかなんて考えていたら背後に人の気配を感じて、わたしが振り返るのと安田くんが「何、してるの?」と声をかけるのがほとんど同じタイミングで重なって何となく返事をするのが気恥ずかしいような感じになってしまったけれど、わたしは「あれ?こんにゃく……」と言って安田くんの抱えるこんにゃくマクラを見た。

こんにゃくマクラは昨日増田さんの家で見たのと同じように不格好で滑稽に見えるのだけれど、ぶるぶると震えていないところが昨日と違っていて、そのせいかどっしりとした重みを感じさせている。

「それ昨日持って帰ったやつじゃないでしょう?」
「あ、うん。今日も、午前中は増田さんのところ、行ってたんだよ」
そう言って安田くんは恥ずかしそうに笑い、
「また、失敗、したけど」とこんにゃくを揺すってみせた。

「震えなくなったね」
わたしの言葉に安田くんは不思議そうに首を傾げた。


安田くんはわたしの斜め後ろに立ったままで、腰を下ろす気配がない。
きっとわたしが声をかけない限り、彼はわたしのそばには座らないのではないか。
なんとなくそんな気がする。
安田くんは何を思っているのかわからない捉えどころのない目で、川で水を跳ねさせている白い小さな鳥を眺めている。


「ねぇ、これさぁ、安田くんのこんにゃくマクラみたいでしょ?」
わたしは笑ってカエルの脚がぴょんと一本飛び出した石けんを見せる。

安田くんの目は一瞬ぎょっという感じで大きくなって、次にふふっと口元を緩ませて「どこが」と言うから、わたしも口の端を上げて「出来損ないなところが」とおちょくってみせた。





カエルの脚が生えた石けんの話は綾花にも唯にもけっこうウケて、わたしは少しずつこの不気味な石けんに愛着を感じ始めたりもしていて、それが悲しかったりもする。綾花も唯もディニズの街でやりたいことを見つけて、二人の進路の他にも話は例の早苗の失恋だとか他のクラスメートの近況だとかにポンポン飛んで、気づいたら二人合わせて3時間近くもわたしは電話で喋り続けていた。


今日の午後行ってみたもう一件の先生の職場では、何も結果は残せなかった。先生が教えていたのは透視術という早苗やトオルが学んでいるような超能力系の内容だったのだけれど、どうやらわたしにはそういった才能はまったく備わっていないらしく、どれだけ粘っても目の前で寝ている犬の腸が透けて見えてくるなんてことにはならなかった。
「僕にはきみの腸内の様子も、心臓の収縮や拡張もバッチリ丸見えだよ」
なんて言って頷いてみせる先生が男である事を意識した辺りから集中力が散漫になっていった事も影響していたのかもしれなくて、それでも日が暮れるまで頑張ってみたものの、結局先生の飼っている犬のポーくんと仲良くなったことくらいしか収穫がなかった。



宿屋に戻ってベッドに横たわっていると、ベッドサイドに置いた石けんの香りがほんのり漂ってきて、鼻をくすぐる。

9つの街を周ったこの4ヶ月でカタチとして残ったものが、まさかカエルの脚が飛び出た石けんだけとはね。

わたしはため息とともに寝返りを打つ。

でも……

形になるって、少し嬉しい。





もう本当に嫌になるけれど、今度はカエルの頭が飛び出した。


朝になるとわたしは珍しく二度寝せずにきちんと起きて、朝食と着替えを済ませてすぐさまみどり先生の家に向かったのだけれど、計画通りに事が運んだのはそこまでだった。みどり先生は出来上がったカエルの頭付き石けんを見て髪を揺らせて笑い、「明日はどこが飛び出すのかしらね」なんて言うのでわたしは思わず「えっ」と声に出して先生の顔を見た。

「遅刻は許さないわよ」そう言ってみどり先生はウインクし、カエル石けんをわたしに放った。

衝動的にチャレンジしたリベンジは、思いのほか長期戦になるかもしれない。



そんなわけでわたしはカエルの頭がひょこっと飛び出ている不気味な石けんを手に、今日も川原に座っている。

ここにいれば、何となく、また安田くんがやって来そうな気がしていて、もしかしたら彼はまたこんにゃくマクラを抱えているかもしれない。いや、きっと抱えているに違いなくて、そのとき、こんにゃくはどんな形をしているのかな。もう震えたりしないのかな。少しはマクラらしい形をしているのかな。そんなことをわたしは考えたりしている。

そして安田くんは今日もわたしの斜め後ろに立って声をかけてくるかもしれないし、彼は今日も腰を下ろさずに川で水浴びをする白い小さな鳥を眺めるかもしれないし、今日のわたしは隣に座りなよ、と彼に声をかけるかもしれなくて、そんなようなことも、わたしは考えたりしている。


まあ、そうなるかはわからないけれど。
安田くんが来るかはわからないけれど。


わたしは白い鳥が姿を見せていない川を眺めながら、みどり先生のさっきの言葉や髪のふわっとする感じやウインクなんかを思い出していて、明日の今頃もこの場所に座っているのかなぁなんてことをぼんやり想像している。


それは決して難しいことではなくて。


少しだけ思い浮かべることが難しいのは、その石けんにカエルの脚や頭がひょこっと伸びていないことだったりしていて。



そんな事を考えているうちに、後ろから、


「今日も、ここにいたんだ」と声をかけられた。




9つの街 - Fin -