声は遙か彼方から響いてくるようにも感じられたし、頭の内側で反響を繰り返しているようにも感じられた。
頭の中の反響に注意を向ければ声は遠のき、彼方の音を拾おうと意識を集中すれば声は再び頭の中をこだました。
『麻美よ……偉大なる青き英雄の末裔よ……
目覚めのときは来た……
宇宙意志と契約を結び、大いなる災いを打ち砕くのだ……』
ベッドに横たわったまま、麻美は時計の蛍光針に目をやる。
夜中の3時を少し回っていた。眠りについてからまだ2時間しか経っていない。
麻美はゆっくりと身体を起こしてため息をついた。
頭が鈍くうずくのはここ最近の寝不足のせいだろう。
こめかみを静かに揉みながら、麻美は声を抑えて言った。
「誰……? あなたは一体誰なの? 何処にいるの……!」
『我が名はゼウス……
東銀河の宇宙局交通安全課の課長だ……』
頭の中に声を響かせながら麻美はカーテンを少しだけ開けた。
大きくて白い月が麻美を見つめている。
「疲れちゃったのかな……わたし……」
ふいに、麻美はケンジのことを思い出した。ひと月前に別れたばかりの、元恋人である。
『疲れではない……これは、啓示なのだ……
小野寺 麻美よ……偉大なる青き英雄の末裔よ……
じきに、大いなる災いがこの銀河を襲うであろう……
今すぐに支度を整え、まずは水星へと向かい、4つの選ばれし魂との邂逅を果たすのだ……』
机の上には今もケンジと一緒に写った写真が飾られている。まったく、私はいつだって甘すぎるんだ、麻美は風船から空気が抜けていくようにそう思う。月明かりを受けた写真立ての中の麻美は、ケンジの腕に抱きついて無邪気な笑顔を見せていた。
『偉大なる青き英雄の末裔よ……
大精霊アビスは水星の宮殿でお前を待ちわびている……
大精霊アビスに会い、100時間耐久で「タイタニック」を鑑賞し、
お前の中に眠る青き英雄の血を目覚めさせるのだ……
そのとき、宇宙意志へと続くモノリス・ゲートは開かれるであろう……』
こんな時間に電話を掛けたところで出てはくれないだろう。
そもそもこんな時間に別れた恋人に電話を掛けて、自分は何を話すつもりなのだろう?
自分がしようとしていることの馬鹿馬鹿しさに苦笑しながら、それでも麻美は携帯のコールボタンを押していた。
そうして3回目までコールを続けた。
4回目のコールが始まると同時に麻美は慌てて電話を切り、ベッドの上へ放り投げた。
「……ばっかみたい」
『偉大なる青き英雄の末裔よ……
モノリス・ゲートの最奥部に我らが存在のはじまりなる空間、事象変異の檻がある……
宇宙意志としかるべき契約を結び、大いなる災い……すなわち、
自動車教習所で見せられる悲しいビデオとの因果律を断つのだ……!!』
「わかったわ」
『え?』
「災いでも何でも、やってやるわよ」
『……偉大なる青き英雄の末裔よ……』
「前置きはいいわ」
『……。
麻美よ……
銀河の運命はお前の手にかかっている……
辛く、厳しい旅になるだろうが……えー、あのぉ、そのぉ……』
麻美は部屋の灯りをつけて着替えを済ませると、歯ブラシとドライヤー、一週間分ほどの着替えを旅行鞄に詰め、思案した挙げ句にコンドームをひとケース鞄に放り込んだ。
「出発よ、ゼウス課長」
『偉大なる英雄、麻美よ……
まずは宇宙船を手に入れるべく、新宿駅前のトヨタレンタリースにて……』
「あ、待って!」
ベッドの上に置きっぱなしにしていた携帯電話が震えながら鳴いている。
1コール……2コール……
麻美は飛びつくようにして携帯を手に取る。
3コール……液晶画面には「ケンジ」の文字。
一瞬の迷い。
手のひらが、腋の下が、汗で濡れる。
心臓の高鳴り。
ファミレスのテーブル。
さよならのひとこと。
4コール目のはじまりと同時に、電話のコール音は消えた。
「ばか。 早いよ……」
『……麻美よ……
これは、銀河レベルでの問題なのだ……
わかってくれるな……?』
ずいぶん長い間麻美は携帯を握りしめたまま黙っていたが、やがて携帯を閉じると、机の上の写真立てをひっくり返し玄関へ向かった。
「ねぇ、なんだか、いろんなことが……
いろんなことがおかしい夜だと思わない?」
麻美は唇を少しだけ噛みしめる。
そのほんの小さな痛みが胸いっぱいに広がってきそうで、麻美は大きく息を吐いた。
『ずっと探していたのだ、偉大なる青き英雄の末裔を……
運命は今日から動き出す』
「運命は今日から動き出す」と麻美は繰り返した。
少しだけ笑って、靴に足を通す。
「悪くないわね、それ」
そして
旅行鞄を肩に下げ、
麻美はいま、ドアを開けた。
〜Fin〜